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郷学研修会
Kyo-gaku Kensyu-kai
[郷 学]きょうがく とは…
監修 安岡正明
明治以来の立身出世のための知識、技術のみに偏る官制学ではなく、地域、職域に基
づく人間教育といった方が分かりやすいと思います。
例えば、学問や体験習得を生涯のことと考えた場合、官制大学へ入学する18歳までの知識習得で
人生が決定され、しかも錯覚された地位、名誉、学校歴、それによる財力によって自動的に指導的立
場におかれて場合、社会に妙な弊害を生じます。
何のために知識が必要なのか、どのような場面で発揮すべきかが分からないまま、組織の一部分に
安住していては、「何のために生まれたのか」「何を行おうとしているのか」「自分は社会(世界)のどの
部分なのか」といった「自分」(全体の一部分の存在)が分からなくなり、ついつい地位や物によっての
表現しか出来ない人間になってしまいます。
肩書のなくした退職後や、狭い組織や地域でしか通用しない地位、学校歴では世界に通用すること
もなければ、人生そのものを固定観念に置いてしまい、夢や希望といった爽やかで無垢な自分を発見
することなく人生を終えてしまいます。
偉人と称され、当時の列強の植民地化から日本を救った明治の賢人たちは今流の学校歴もなけれ
ば地位は下級武士、財もなければ肩書もありませんでした。
加えて、時代を見抜く見識と利他に貢献する勇気、そして何よりも日本及び日本人として、またアア
と欧米の調和といった全体を考える許容と包容力を養い、そのために死をも恐れない献身がありまし
た。
その根本は単に知識、技術の習得だけではなく感動、感激をつうじた人間教育の体験がありまし
た。それは、人と比較するものでなければ、中央に寄り添う迎合もなければ、財のみを目的にする行
動ではありません。つまり習得を前提となる「本」となる精神の涵養でした。
そんな人間を育てた郷士の環境、歴史の恩恵にもう一度、価値を見出す相互学習の場、それが「郷
学」の楯唱でもあります。
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寶田 記
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