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日本農士学校創設の趣意

  

                         《昭和6年と現代の類似性》

 人間にとって教育ほど大切なものはない。国家の運命も人間の教育に掛かっていると古の賢人はいう。

 真に人を救い正しい道を歩むためには、結局、教育に委ねなければならない。そしてその大切な教育は現在、どのように成っているのだろうか。

 現代の青年は社会的に悪影響を受け感化されるばかりで、その上、殆どといってよいくらい家庭教育は廃(スタ)れ、教育は学校に限られている。

 しかも一般父兄は社会的風潮である物質主義、功利主義に知らずしらず感染して、ひたすら子供の物質的成功や卑屈な給料取りにすることを目的として学校に通わしている。

 その群れとなった生徒たちを迎える学校は粗悪な工場となり、教師は支配人や技術者、はなはだしくは一介の労働者のようになり、生徒は粗製濫造された商品となって、意義のある師弟の関係や学問の求める道などは亡び、学科も支離滅裂となり学校全体になんの精神も規律も見当たらなくなっている。

​ そのため生徒たちは何の理想もなく、卑屈に陥り、挍猾になり、また贅沢や遊び心にある流行ごとに生活価値を求め、人を授けたり、邪なものに立ち向かう心を失い、ついには学問に対する真剣な心を亡くしている。

男子にいたっては社会や国家の発展に欠かせない気力に欠け、女子は純朴な心に宿る智慧や情緒が欠けてしまった。

 このようなことで私たちの社会や国の行く末はどうなってしまうのであろうか。

 さらに一層深く考えると、文化が爛熟(ランジュク)して、人間に燃えるような理想と、それを目標とした懸命な努力が亡くなり、低俗な楽しみと、現実から逃避をするような卑怯な安全を貪り、軽薄は理屈によって正当化するようになってくると、このような人々は救済不可能になってくる。

 平安時代の公家も江戸時代の旗本御家人もこのようにして滅んでいる。

 徳川吉宗も松平定信も焦ったのだが、権力や法では手の下しようも無いほど民情は退廃している。たとえ百万の法規でも道義の崩壊は食い止められない。

 

 このような時、社会の新しい生命を盛り立てたものは、退廃文化の中毒を受けず純潔は生活と、しっかりした信念をもった純朴で強い信念を持った田舎武士であった。そのことは今もって深い道理には変化はない。

 この都会に群がる学生に対して、今の様な教育を施していて何になろう。国家の明日、人々の末永い平和と繁栄を考える人々は、ぜひとも目的の視点と学問を地方農村に向け、全国津々浦々の片隅に存在する信仰、哲学、詩情、に鎮まりを以って浸り、もしくは鋤(すき)鍬(くわ)を手にしながら毅然として中央を注視して、慌てず、騒がず、自身を良く知り、家をととのえ、余力があれば、まず郷、町村を独立した小社会、小国家にして自らを治める自治精神を養うような郷土や、人々に尊敬される農村指導者を造って行かなければならない。 

 それは新しい自治主義(面白く言えば新封建)主義というべき真に日本を振興することにもなる。

 農士学校は、さまざまな軽薄な社会運動や職業的な教育運動とはまったく異なり、河井蒼竜窟のいう地中深く埋まって、なお国家のために大事なことを行おうという鎮まりを護り、人々の尊厳と幸福を天地自然に祈るように順化し、人間としてあるべき姿を古今東西の聖賢の教えを鏡として、まず率先して行うべき行動である。

 金鶏学院の開設から四年が経とうとしている。我々は自信の意思と身体をこの場所に潜め、大地に伏し、地方農村に生活を営みながら、国を正しい姿に改心した先覚者、あるいは社会に重きをおく賢人とはどのような人格なのか、また学問や教養の積み重ねを、いかに勤労をとおして励んだらよいかを研究しつつ、さらにその間、私たちのささやかな意思は、日本の中心に置かれている各方面の国を考える多くの国土とも交流を図ってもきた。

 今の様相はもはや一刻の停滞を許さない。

 我々は自らの安易な生活をむさぼり、空理空論といういたずらに無意味な議論に安住してはならない。

 此処に至っては前記に掲げられた覚悟を行動に現すべく、屯田式教学(勤労しながら学ぶ「産学一体」)の地を武蔵相模の山々に囲まれた武蔵嵐山の菅谷の地に求め、鎌倉武士の華と謳われた畠山重忠の館址(やかたあと)を択んで、ここに山間田畑二十町歩の荘園を設立することができた。さすがに古の英雄が選択したところだけあって、地形、土質、環境に得がたいものがある。

 私はここに今まで寝食をともにして学問の道に励んだ有志とともに、日本農士学校を設立して平素考え求めていたことを共に実現したいと思う。

昭和 六年四月 

安 岡 正 篤

現代訳文責 

郷学徒  寶田

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